映画「風立ちぬ」は2013年当時宮崎駿の引退作品として公開されました。
主人公堀越二郎は実在の人物をモデルにしており、宮崎駿の手掛けたジブリ映画としては異色の作品です。
飛行機作りをする主人公と結核を患うヒロインの切ない恋愛を丁寧に描きながらも、戦争へ向かう日本の殺伐とした空気感についても妥協を許さない描写は宮崎駿の監督人生をかけた作品だったことを物語っています。
ネット上にはヒロインの菜穂子が物語終盤で自殺したのではないかという怖い都市伝説が存在しています。
いかにもジブリの都市伝説らしい怖い話ですが、「菜穂子自殺説」ともいえるこのウワサは一体どういったところを根拠にしているのでしょうか。
また、「風立ちぬ」には原作となった実話が存在しているといわれています。
原作やキャラクターのモデルにも触れながら、映画「風立ちぬ」にまつわる都市伝説と菜穂子の死因について詳しく考察していきます。
風立ちぬ ジブリ 都市伝説が怖い?菜穂子の死因は病気じゃない?
「風立ちぬ」で一番衝撃的だったのはラストの菜穂子の「生きて」が原作の絵コンテだと「来て」になってて
つまり作った零戦が一機も帰らず国も滅びた二郎に死んだ菜穂子が「あなたもこっちに来て」と言ってる辺り宮崎駿監督の真の狂気と業を見た
多分鈴木プロデューサーあたりが流石に止めたのだと思う pic.twitter.com/mrquQM5kNl— 田村吉康 TAMURA Yoshiyasu (@FUDEGAMI) April 12, 2019
「風立ちぬ」のヒロインである菜穂子は物語がクライマックスに差し掛かったところで二郎の前から姿を消しました。
菜穂子の置手紙の文面をそのまま受け取れば病院に戻ったということになり、菜穂子の死因は病死ということになりますが、一方で不可解な点があることから菜穂子は自殺したのではないかともいわれています。
菜穂子の死因を考えるにあたってまず「風立ちぬ」という物語への理解を深めるため、原作といわれている作品について調べました。
風立ちぬ は実話原作がある?
映画「風立ちぬ」の直接的な原作にあたるものは、宮崎駿が「崖の上のポニョ」の製作が終わってから描き始めた漫画「風立ちぬ」ですが、この漫画「風立ちぬ」の原作といわれているのが堀辰雄の小説「風立ちぬ」です。
堀辰雄の「風立ちぬ」は、主人公「私」が結核に侵された婚約者と共に過ごす日々を描いた作品で、ヒロイン節子のモデルとなったのは堀辰雄の婚約者の矢野綾子でした。
矢野綾子も堀辰雄と婚約してからたった一年ほどで結核により亡くなっています。
堀辰雄は婚約者の病気と死を見届け、自身の体験を元に「風立ちぬ」という物語を書き上げました。
映画「風立ちぬ」は、小説「風立ちぬ」以外の堀辰雄の作品からも影響を受けているようです。
まず、映画のヒロインの菜穂子という名前は「菜穂子」という作品にちなんだものです。
映画の主人公二郎が避暑地で菜穂子と再会するという展開は、「美しい村」という作品の中で軽井沢を舞台にヒロインとの出会いが描かれていることとも関わりがありそうです。
「美しい村」では冒頭にゲーテの「ファウスト」の詩が引用されていますが、宮崎駿が「カプローニは二郎にとってのメフィストフェレス(「ファウスト」に出てくる悪魔)」と言ったことにも繋がってきます。
ここで挙げた堀辰雄の作品は、彼自身の体験や彼の身近な実際の人間関係を描いているといわれているので、宮崎駿は堀辰雄という人物そのものに感化されたとも言えます。
宮崎駿の映画「風立ちぬ」に織り交ぜられた実話は堀辰雄の物語だけではありません。
映画「風立ちぬ」の主人公である堀越二郎は、零戦の設計をした実在の航空技師である堀越二郎をモデルとしています。
宮崎駿は漫画の中で主人公の堀越二郎とは別に、二郎の大学時代の同級生として堀辰雄というキャラクターも登場させていますが、映画化にあたって堀辰雄は登場しないことになりました。
漫画では別人として存在していた堀辰雄と堀越二郎という二人の人物のイメージが重なって映画の主人公が作り上げられたのです。
さらに、映画公開後に雑誌で掲載された対談の中で、宮崎駿は自分の父親も二郎というキャラクターを描くにあたって参考にしたことを明かしています。
実在の人物である堀越二郎や、堀辰雄、そして宮崎駿の父親の体験に基づく部分も盛り込まれ、いろいろな方向から現実味を持たせて作り上げられたのが映画「風立ちぬ」の主人公堀越二郎なのです。
堀辰雄の実体験を元に書かれた小説「風立ちぬ」はもちろん、堀越二郎や宮崎駿の父親という実在の人物の人生そのものも、当時のリアルを描くための実話原作であったともいえるでしょう。
風立ちぬの都市伝説とは?
様々な作品や人物に影響を受けて作られた映画「風立ちぬ」には、一体どのような都市伝説があるのでしょうか。
ネット上で語られている都市伝説のなかでも興味深いものを三つ取り上げます。
・空飛ぶ円盤と堀越二郎!消えた12番目の仮説とは…
・菜穂子のモデル?菜穂子と節子と…?
・ラストシーンの菜穂子のセリフは「生きて」じゃなくて「来て」だった?
空飛ぶ円盤と堀越二郎!消えた12番目の仮説とは…
「風立ちぬ」の主人公のモデルとなった堀越二郎は、1947年に起こったUFO目撃事件、通称「ケネス・アーノルド事件」についての考察を行っています。
「ケネス・アーノルド事件」というと、オカルトマニアの間ではUFO=「空飛ぶ円盤(Flying Saucer)」という印象を植え付けたことで有名な事件です。
堀越二郎の未発表の原稿の中に12の仮説が書かれていました。
しかし原稿には消失したページがあり、そこに書かれていたのが12番目の仮説だったようです。
1~11番目までの仮説はUFOの存在を否定するものでしたが、消えた12番目の仮説というのがUFOの存在を肯定するものだった、あるいはUFOの存在の核心に迫るものだったのではないかということがネット上で都市伝説として語られています。
堀越二郎は原稿の中で、円盤型の飛行物体が人を乗せるものの主流になるとは思えないという見解を述べていますが、円盤に似た形の飛行兵器(自動推進爆弾)がすでに存在しているかもしれない可能性には触れていました。
UFOと聞くとどうしても宇宙と関連付けたオカルトという認識が一般的であるために、「ケネス・アーノルド事件」についても「宇宙からの飛来物なのか」といったことや「陰謀論」との関連が論点になりがちです。
しかし、堀越二郎のスタンスは「円盤型の飛行物体は実在可能か?」「円盤型の物体が目撃証言のように空を飛べるのか?」という非常に現実的なものでした。
堀越二郎の冷静な視点からすると、「堀越二郎がUFOに関する仮説を立てた」という言葉の印象だけでオカルトに結びつけることはできないように思われます。
オカルトであることを否定しましたが、12番目の仮説のページが消失しているという点がこの都市伝説をミステリアスにしているのは事実です。
消失の理由については12番目の仮説が機密情報に触れたためアメリカによって破棄されたのではないか、はたまたアメリカの機密情報を狙うソ連が持ち去ったのではないか、など憶測を呼んでいます。
しかしそもそもこの原稿自体未発表で、1950年ごろ堀越二郎が少年誌の連載記事の続編とする予定だったものではないかと言われており、正式な論文ではありません。
かなり書き直した跡があるらしいので、堀越二郎自身が納得がいかずページを破棄して原稿をお蔵入りにしたという可能性もあります。
とはいえ、天才と言われた航空技師堀越二郎がアメリカやソ連に原稿を狙われるようなUFOの秘密を解き明かしたのかもしれない、という都市伝説にはロマンを感じます。
菜穂子のモデル?菜穂子と節子と…?
菜穂子のモデルとなったのは堀辰雄の作品「風立ちぬ」のヒロイン「節子」と、同じく堀辰雄の作品「菜穂子」のヒロイン「菜穂子」の二人であるとする話はよく見かけますが、他にもモデルとなった人物がいたようです。
宮崎駿は引退会見の中で「風立ちぬ」のラストシーンについて語った際、「菜穂子は(「神曲」の)ベアトリーチェだ」という考えを持っていたことを明かしています。
ダンテ・アリギエーリの著作「神曲」は、主人公ダンテが死後の世界を旅する物語ですが、ダンテを天国に導く存在がかつての恋人で若くして病死したベアトリーチェなのです。
菜穂子もベアトリーチェも、少女の頃に主人公と出会い、恋をして、美しい女性に成長したのちに再会を果たして恋仲になる、という点はよく似ています。
相違点としては、菜穂子が二郎と結ばれたのに対し、ベアトリーチェはダンテの愛を信じられなくなる出来事があり、その後別の男性と結ばれてしまうところです。
キャラクターを作り上げるうえでモデルにしたというよりは、映画、あるいは原作となった漫画を製作していく中で菜穂子とベアトリーチェの重なる部分が見えてきて、ラストシーンにおいて「菜穂子はベアトリーチェだ」という思いが生まれたのではないでしょうか。
菜穂子=ベアトリーチェだとすると、「神曲」において地獄と煉獄を案内するダンテの師ウェルギリウスは二郎の尊敬するカプローニです。
宮崎駿はアフレコの演技指導のときにカプローニのことを「ファウスト」のメフィストフェレスに例えています。
メフィストフェレスは「ファウスト」において主人公ファウストの導き手という存在であり、そういった点でもカプローニに似ています。
カプローニ=メフィストフェレスだという仮説を立てると、「ファウスト」という作品において菜穂子に対応する存在がグレートヒェンです。
グレートヒェンは「ファウスト」第一部で主人公ファウストと恋人になったことで悲しい死を遂げるヒロインです。
ファウストは「時よ止まれ、お前は美しい」と口にしてしまうと魂がメフィストフェレスの物になるという契約を交わしており、メフィストフェレスはあの手この手で「美しい」瞬間をファウストに与えて魂を奪おうとします。
カプローニは二郎に飛行機という「美しい」夢を見せるメフィストフェレスなのです。
「ファウスト」では物語の最後にとうとう死を迎えたファウストが悪魔メフィストフェレスに魂を奪われそうになるところを、グレートヒェンが天上から祈りを捧げて彼の魂を救済しました。
グレートヒェンの祈りについては、セリフが変更される前はラストシーンの草原でカプローニが菜穂子のことを「君のために祈っていた人だ」と言うはずだったことにもつながってくる部分です。
ここまでに挙げた「風立ちぬ」と「神曲」と「ファウスト」という三つの作品は、自分より優れた「導き手」と共に辛い世界を経験し、最後には死んだはずの「最愛の人」との再会によって救われる、という構図が似通っていると言えるのではないでしょうか。
そういった点から考えて、堀辰雄の描いたヒロイン菜穂子や節子だけでなく、ベアトリーチェやグレートヒェンも、映画「風立ちぬ」のヒロイン菜穂子を作り上げるときに宮崎駿が参考とした女性なのかもしれません。
ラストシーンの菜穂子のセリフは「生きて」じゃなくて「来て」だった?
公開された映画ではラストシーンで菜穂子は二郎に「あなた、生きて」と言いました。
しかし、当初このセリフは「あなた、来て」という、二郎を死後の世界へ導く言葉だったといいます。
ラストシーンで菜穂子が登場する場面の絵コンテには「きて」と書き込まれており、絵コンテの段階では「生きて」ではなかったことは事実です。
さらに宮崎駿は菜穂子のセリフが「死後の世界に来て」という意味だったことを裏付ける発言をしています。
引退会見のインタビューの中で宮崎駿は、ラストシーンの草原は「煉獄」であり、カプローニと二郎は死んでいるという考えだったことを明かしました。
そして「菜穂子はベアトリーチェ」で「迷わないでこっちに来なさい」という意味で「来て」と二郎に声を掛ける、というラストシーンを絵コンテにしたそうです。
前述の通り、ベアトリーチェは主人公を天国=死後の世界を案内する役目を持っています。
この時点では、菜穂子は死後の世界に二郎を導く存在だったのです。
ところが「こんがらがって結局それはやめた」と宮崎駿は言っています。
そして「来て」というセリフは「生きて」に変更されたのです。
二郎が死んでいるという設定も変更されたのかはわかりませんが、死んでしまった人間に「生きて」とは言わないように思われるので、恐らく二郎はまだ決定的に死んではいないのではないでしょうか。
草原が死後の世界なのか、二郎の夢なのかという点については確信を持てるような公式の情報がないので、変更後のラストシーンが二郎の夢であるとも夢ではないとも断定できません。
菜穂子の死因は病気じゃない?
#風立ちぬ
菜穂子さんは全てを受け入れて、悟って、好きな人に美しい姿だけを残して去っていく。菜穂子さんの生き様が辛い🥺 pic.twitter.com/8uJKJMx86B— ankoromochi2017 (@ankoromochi2017) April 12, 2019
結核の治療のために入院していた高原病院を抜け出し二郎と結婚した菜穂子は、物語終盤で自身の死期を悟り、二郎の元を去りました。
その後、自身の作った戦闘機の試験飛行に立ち会っていた二郎が虫の知らせを受け取るシーンがありますが、菜穂子の死は明確に描かれていません。
病院に戻り、結核のために亡くなったという解釈がある一方で、「病院に戻らずそのまま自殺したのではないか?」ともウワサされています。
菜穂子の死因とは一体何だったのでしょうか。
菜穂子の死因は病気じゃなくて自殺?
作中で菜穂子の書いた手紙を信じるならば、菜穂子は山の病院に帰ったということになります。
その後すぐ菜穂子は亡くなったと思われますが、作中に見られるいくつかの描写などから「病院に戻らずそのまま自殺したのではないか?」と言われています。
主に指摘されているのは三つです。
・病院に帰るのにバスに乗っていない?
・ギリギリだったわりに体力がある?
・テーマソング「ひこうき雲」は自殺の歌?
病院に帰るのにバスに乗っていない?
菜穂子が置手紙を残して黒川邸を後にした際、菜穂子を訪ねてきた二郎の妹かよが乗ったバスとすれ違います。
かよは黒川邸に行く予定だったので最寄りのバス停に向かっていたはずです。
黒川邸の最寄りのバス停に向かうバスとすれ違ったということは、菜穂子は少なくともバス停一つ分の距離を徒歩で移動したということになります。
バスに乗って病院に帰るはずである、と考えると違和感のある行動です。
しかしこれについては、かよが来るとわかっていたからバス停で鉢合わせることを避けるために最寄りのバス停を避けたのではないかという意見もネット上で見受けられました。
ギリギリだったわりに体力がある?
菜穂子はバスに乗らずに歩いて黒川邸から姿を消しました。
病院についてすぐ亡くなってしまうほど衰弱していたのなら歩いて出ていくことは難しいように思われます。
また、黒川夫人が「好きな人に美しいところだけ見てもらったのね」と言っていることから、弱ってやつれていく様子を二郎に見せたくなかったという菜穂子の考えがうかがい知れます。
結核という病気は微熱、倦怠感、食欲不振などの症状が続き、適切な治療が行われないまま進行すると咳、痰がみられ、さらに重症化すると呼吸困難に陥り、最悪の場合死に至ります。
死が間近に迫る状態だったのならば、出ていくことさえままならないのではないかという疑念を抱く人もいるようです。
テーマソング「ひこうき雲」は自殺の歌?
もう一つ自殺を連想させる要素が、「風立ちぬ」のテーマソングである荒井由実(現在の松任谷由実)の「ひこうき雲」です。
「ひこうき雲」は高校生の時に荒井由実が衝撃を受けた飛び降り心中事件と筋ジストロフィーで亡くなった同級生の記憶が重なり生まれた曲であると書籍の中で語っています。
「ひこうき雲」=自殺の歌という認識は荒井由実のファンの間では広く知られており、「風立ちぬ」のテーマソングに使われたことに違和感を覚えた人も少なくはなかったそうです。
飛び降り心中=自殺から着想を得た歌をテーマソングとしていることも、「菜穂子自殺説」を後押ししているようです。
自殺?病死?菜穂子の死の謎
菜穂子が黒川邸から出ていったときの状況から考えると、菜穂子が自殺したという解釈が生まれることも理解できます。
作中では、その後に亡くなったと「思われる」描写があるだけで、映像からもセリフからもはっきりと菜穂子が死んだと確信の持てる描写はありません。
病院に戻って死んだとも自殺ともわからないまま、二郎が菜穂子の死を予感するシーンでしか菜穂子の死は表現されていないのです。
宮崎駿は映画を製作していくうちに菜穂子というキャラクターを死なせたくなくなったのだといいます。
ヒロインの死という設定を変えるわけにもいかず、宮崎駿なりの妥協点として菜穂子の死を明確に描写しなかったのではないかと言われています。
菜穂子を死なせたくなかった宮崎駿が、映画としては描かれない物語の中で菜穂子に自殺をさせるでしょうか。
また、宮崎駿は本作についてのコメントの中で、子供たちに「この世は生きるに値する」と伝えたかったと言っています。
キャッチコピーも「生きねば。」です。
「風立ちぬ」は「生きる」ということをテーマにしています。
「生きる」をテーマにした作品の中でヒロインを自殺させるでしょうか。
ヒロインの自殺という展開は「生きる」というテーマにそぐわないように思われます。
作中の描写とテーマソングは「菜穂子自殺説」に説得力を与えているように見えますが、宮崎駿の菜穂子への思い入れや「この世は生きるに値する」というメッセージは自殺説とは矛盾しているといえるでしょう。
絵コンテの中には、かよの乗ったバスとすれ違った菜穂子がその後汽車に乗る描写があるそうです。
その描写だけでは病院へ戻って病死したことの証拠にはなりませんが、最寄りのバス停からバスには乗らなかったけれども菜穂子は駅についていたことがわかります。
「菜穂子自殺説」に基づけば、汽車に乗って誰にも見つからない場所に行って自ら命を絶ったという可能性は否定できません。
あくまで持論ですが、菜穂子は自殺していないと思います。
誰にも見つからない場所で自殺する=二郎は菜穂子が死んだことを確認できないということです。
「どこかで生きているかもしれない」という希望を持てるほど体調が良くない菜穂子がいなくなったとなれば、「どこかで死んだかもしれない」というやりきれない思いを抱えたまま二郎は生きていくことになります。
また、菜穂子は良家のご令嬢なので、行方知れずとなれば捜索も念入りにされるはずです。
人気のない場所で野ざらしになれば当然遺体は悲惨な状態になるわけで、万が一にも発見された場合の二郎のショックは計り知れないものでしょう。
黒川夫人の言っていた「美しいところだけ見てもらった」という発言を「衰弱し、やつれていく姿を見せたくなかった」と解釈して、「美しいうちに自殺してしまった」と説明する説もありましたが、これは自殺した後の遺体を二郎が目の当たりにすることを前提とした考えです。
行方をくらまして死んだあと「美しいうちに」発見してほしいのであれば、死に場所を手紙に書き記しておかなくてはいけません。
手紙には行き先は書いてありました。
「病院」です。
二郎の仕事に区切りがつくまで見届けたら、山の病院を死に場所として一人で命の終わりを待つつもりだったのでしょう。
本人も病院についてすぐ死ぬほど弱っているとは思っていなかったのかもしれません。
バスに乗らず歩いたり、汽車に揺られたりと、病院につくまでに体力を消耗し、疲労で急激に容体が悪化したという可能性もあります。
さらに、二郎を側で見守る役目を終えたことで緊張感がふっとゆるんで、いわゆる燃え尽き症候群のような形で亡くなったのかもしれません。
菜穂子は自殺していない、というより、近いうちに死がやってくることが確実だったのでわざわざ自殺する必要がなかったのだと思います。
余談ですが、先に紹介した菜穂子のモデルや参考となった女性たちは一人も自殺していません。
宮崎駿がこれまでに描いてきたジブリヒロインたちも皆、強く、たくましく、生きることに前向きな女性たちでした。
こういったヒロイン像には宮崎駿の美学のようなものを感じます。
自殺してしまう=生きることを諦めるような女性をヒロインにすることは宮崎駿の美学に反する、と言えるのではないでしょうか。
ツイッターの声
「菜穂子自殺説」についてTwitterで調べていくと、「風立ちぬ 菜穂子 自殺」のキーワードを用いたツイートのほとんどが2013年8月にネット上に投稿された記事を話題にしたものだということがわかりました。
それ以前にTwitterで「菜穂子自殺説」をはっきりと唱えている人はおらず、「菜穂子自殺説」がTwitterで取り上げられるようになったきっかけがその記事であることは間違いないでしょう。
発端の記事を紹介するツイートが登場して以降は、菜穂子が自殺したという都市伝説を知った人がショックを受けたといった内容や、「菜穂子自殺説」を信じる人のウンチク的なつぶやきが見られました。
むしろTwitter上で自殺した(もしくは自殺しようとした)とウワサされている「風立ちぬ」の登場人物は二郎でした。
「二郎自殺説」についてツイートした人たちは、菜穂子の死と自身の作った戦闘機によって失われた命に罪悪感を覚え、自ら命を絶とうとしたところ、臨死体験的に菜穂子と再会し「生きて」と言われたのだと解釈したようです。
さらには二郎の生き様や「風立ちぬ」という作品そのものに宮崎駿の監督人生を重ね、ラストシーンでは監督生命を自ら断つ=完全なる引退を表現したのではないか、という推測もいくつか見受けられました。
二郎が自殺したと仮定して、二郎の死=宮崎駿の監督生命の終わりという考え方です。
当時宮崎駿の引退作品として「風立ちぬ」が発表されたことが、監督生命の終わりを作品に見出してしまう原因なのでしょう。
ところが2017年から宮崎駿の最新作の製作が進められています。
「風立ちぬ」を宮崎駿の最後の長編作品だと信じていた人々からは引退撤回について疑問の声もツイートされていました。
まとめ
#風立ちぬ
本来宮崎駿監督のラスト作になるはずだった賛否分かれた物だがここで描かれる堀越二郎と言う信念を持って取り組むと言うのは宮崎自身も投影し心を打つが犠牲も有るとリアルに告げてるようで老若男女が観るべき映画に仕上がってると思われメッセージ性の強さも感じる。#1日1本オススメ映画 pic.twitter.com/KQWgxbmeYF— モンタナS(引用お断り🙇) (@montanas1968) October 3, 2020
ジブリ映画「風立ちぬ」は一言で言い表せないほど多くの人や作品に影響を受けていました。
宮崎駿があちこちに仕掛けた意図は、物語に深みとリアリティを与えている一方でさまざまな憶測を呼ぶ要因となり、死が間近に迫った菜穂子の行動の中に疑わしい描写がみられることから「菜穂子自殺説」という怖い都市伝説が生まれたようです。
菜穂子の死因が自殺か病死かは判断が難しいところがありますが、「風立ちぬ」について調べていくうちに個人的には自殺ではないという考えに至りました。
Twitterではむしろ主人公二郎の方が自殺したという都市伝説が真実味をもって語られています。
二郎自殺説については怖い話としてだけでなく、宮崎駿が監督人生を自らの手で幕引きすることの暗示だったのではないかという見方もされていました。
ここまで宮崎駿自身に重ねられた作品はジブリにおいても他にないといってもいいでしょう。